「バカ」の客観的判定
『バカとつき合うな』のような本を読む方は「少なくとも自分は完全なるバカではない」と認識している人間である。
「私はバカである」と自覚しているような人間であれば、タイトルを見てげんなりするでしょうから。
だからその本の読者は「自分には多少なりとも頭がいいところがある」というぼんやりとした確信のようなものを持っているはず。
別にこのことの良否を私は言いたいわけではありません。誰かにケンカを売るような文章を書いても楽しくないし(「ケンカ売ってんのか!」と思われたらごめんなさい)。
ではなくて、ここでは単純に、人間は誰かが「バカであるかどうか」をほんとうに客観的に判定することは不可能であるということを言いたい。
「バカである」は言ったもん勝ち
「この人は頭がいいのか? あるいはバカなのか?」という問いかけは短期に答えを出さなければならない場合がほとんどですが(企業の採用面接、ふいに出会ったブログの文章……などなど)、そんなときクリアに、公平に、正確に「その人がバカであるか」を判断するのはほとんど不可能に近い。
- 「自分は頭がいい」
- 「自分はバカだ」
- 「あいつは頭がいい」
- 「あいつはバカだ」
このような判断をするとき、判断基準のかなりの部分を主観が占める。
「頭がいい」と「バカ」を判定する統一的な度量衡を打ち立てることはかなりの難題です。
「頭がいいか悪いか」は「言ったもん勝ち」な側面もある。
「きみはバカだね」と言われたところで、言われた人にとってたぶん致命的なその言説に対して、打つ手がない。
「きみはバカだね」と発信した側は「きみ」よりも「頭がいい」ことを前提として言葉を発している。
「きみはバカだね」と私が言われたとして、その方が私を「バカ」と判定した理路を私が理解できる保証はない。
バカなのだから。
「だからお前はアホなのだ!」
バカにバカである由縁を説明したところで、それが理解できないほどにバカであればその事実こそが私がバカであるという証左になる。
まさに「バカに塗る薬はない」「言ってもわからぬバカばかり」「だからお前はアホなのだ!(@東方不敗)」ということわざの通りである。
であるからして、「きみはバカだね」と言われたときに「そんなことはない!」と顔を真っ赤に反論したところでそれは所詮「バカのたわごとよ」と頭のよい方に一蹴されるし、「え、そうなの?」ととぼけたふりをしたところで「あ、やっぱりおれの言ってることに反論できない程にバカなのだな」とバカ説を補強するだけである。
反論してもしなくても覆らないのであれば、フリーダムガンダムが大破した後のキラのように流れに身を任せるしかあるまい。
ロボットものつながりでいえば、ナデシコのルリが「……バカばっか」とつぶやいたときには誰も何も言わなかったけれど、それはそういう事情があったからなのだな、と今さらながらはっと気づく。
あのセリフは視聴者たちがツンデレのありがたさを噛みしめるためのものではなかった。
「ホシノ・ルリには誰も反論できない」という彼女の「頭のよさ」をこの上なくしみじみと実感するためのシグナルだったのだ。
「バカじゃないの?」と言われたときに言い返すか、諦観するか。
それって「運命の選択」みたいな?
参考 頭が悪くて何か問題でも?内田樹の研究室