古き良き時代があった。
リアルはリアル、ネットはネット。
そんなふうに自分のペルソナを使い分けることが当たり前にできる時代があった(「特定しますた」の効力が高かったとき。今では「特定しますた」の難易度は下がり、その気になれば誰でも誰かを特定できる)。
私にとって、それが浸食され、両者の境界があいまいになったのは、だいたい2010年ころ(個人的にTwitterを始めた頃合い)だったような気がする。
おそらく歴史的には東日本大震災を契機とした非常時のTwitter依存の高まりの時期と重なるだろうけれど、今思いついたので真偽は知らない。
今回話題にしたいのは、リアルにネットが入り込んでしまったこととそれへ個人的なカウンター・パートである。
私にとってネットはリアルそのものと直結しておらず、必ず何らかのフィルターが介在している。
「あちら側」と「こちら側」を行き来するイメージで、心の中に革命を起こしている。
たぶん心のどこかで「居場所」を複数持っていたいという欲望があるから。誰でもこんな欲望があるでしょ?と安易に普遍化はしないけれど。
それはともかく、Twitterでつぶやいたこととまったく同じ内容をリアルでもぺらぺら話す人がいる。
それが例えば商業的な意味合い(彼の経営するバーで今夜ジャズ・イベントがあるとか、彼女がデイナー・ショウを開くためチケットをさばきたい等)であれば理解はする。広く人口に膾炙することが直接的な利益に結びつくのであれば。
でも、例えばめちゃくちゃ個人的なこと(秋元真夏さんが好きだ!とか)をリアルとネットのどちらでも言ってしまう人は、二つの区別をつけていないのだな、と思ってしまう。
それ自体は個人の価値観であり私がとやかく言うべき事柄ではない。
でも、別に「リアルとネットの区別は絶対つけなさい」と主張することはないけれども、リアルとネットが紐づくことのリスク(特定しますた)やアイデンティティーが単一化することの弊害を過小評価してはいけないのでは、と私は思う。
だからというわけでないけれども、私はTwitterアカウントを8個動かしているし、サイトも5個持っている。
あまり文体は変えていないので、見る人が見ればマッチさせられるだろうけれども、露骨にはしていない。
とどのつまりは、多様な人間になりたぃよう、という気持ち。
ん?
「とどのつまり」の「とど」って、「トドゼルガ」の「とど」なのか知らん。
絶対零度?