ドグラ・マグラざんまい
「推理小説、お好きですか?」と聞かれることがあるけれども「あんまり読まない」と答えている。
最も新しい記憶を紐解いたとしても、さいきん読んだのは夢野久作『ドグラ・マグラ』で、それ以前に読んだ推理小説となると思い出せない。
そもそも一年前にも『ドグラ・マグラ』を読んだ記憶があるので、ここ一年で『ドグラ・マグラ』以外の推理小説を読んでいない可能性が高い(どれだけ好きなんだ、ドグラ・マグラ)。
石橋を叩いて「変わりたい」と言うだけ
ほんとうに面白い小説だと確信できるまで小説には手を出さないことにしているのでこういう事態に陥ることになるのだけれど、いくらなんでも読まなすぎだと思う。今後の改善が望まれる。人間はそう簡単には変われないけれども「変わりたい」と毎日言い続ける自由はある。
変わりたい。毎日だらだらして過ごしたい(嘘をつけこのスカポンタン!)。
推理小説と秩序性と熱湯風呂
さて、私と違って、せちがらいこの世の中には推理小説を好んで読む方が一定数存在します。
楽しみ方は人それぞれでしょうし、ジャンルも細かく分かれていますので「推理小説」と乱暴にひとくくりするのは適切でないかもしれませんが、そのあたりは適度に目をつぶって申し上げると、「推理小説」を読んで得られる効能のひとつとして「秩序が存在していることを感じることができる」ことが挙げられます。
推理小説ではたいてい、事件が起こり、それについての考察があり、一応「犯人」らしい人などが明らかになって丸く収まります。
そのような形式というか、様式美というか、ルーティンというかパターンというか、「最後まで読み通したら結末を知って多少すっきりした自分がいる」ということを想定しながら読み進めることができるのが「推理小説」です。
入浴後に不快感だけが残るとしたら、誰が好き好んで熱湯風呂につかるでしょうか(いや、誰もしない)。
読んでいる間は不可解な事件や容疑者の絞り込みに頭脳が翻弄されていたとしても、推理小説を読んているときは、「それを読み終えた時点での未来の自分」は事件について一応の納得・理解をしているという大船に乗った気持ちで読むことができます。
勧善懲悪という「安心」
別の効能もあります。
殺人事件の犯人が逮捕されることによって(場合によっては逮捕に至らないときもありますが)、「悪事は、必ずばれて報いを受ける」という社会の勧善懲悪システムがうまく機能しているということを、あなたは再確認することができます(虚構ですけど)。
私たちが生きている社会には秩序を保つためのきちんとしたシステムあり、それが正常に滞りなく稼働しているということは、私たちを安心させます。
だから「推理小説」を読むのは「スリル」とか「サスペンス」とか、いわゆる「刺激を求めて」という理由ではなくて、本質的には「安心を求めて」という理由だと私は思います。
殺人事件を楽しんで安心を得るというのは逆説的ですが、、推理小説が誕生以来人気を保ってきた一因には、そのような知見があるのかもしれません。