はじめに
Twitterをやっていると「読書アカウント」なるものにしばしば出会う。
いや、まるで、Twitter界隈に読書アカウントが跋扈しているような書きぶりをしてしまったけれども、そもそもSNSというものは「自分が見たいものを見る」メディアであるからして、私が「読書アカウントっていっぱいあるんだなあ」と感じるのは筋違いというか、物事のとらえ方の一面というか、自分用にカスタマイズした(された)インターフェイスを見せられているだけという事実があるわけで……む、話が脱線したので戻します。
SNSにおける読書アカウントに代表されるように、インターネットには読書の感想が氾濫している。
私もTwitterや読書メーターやここではないホームページに読書火葬(あ、打ち間違い。でもある意味”とむらい”かも)を公開しているのでこの文章を読んだあなたやあなたやあなたから「お前が言うか?」と言われる可能性大なのですが、それはともかくとして、そういう「他人の書いた本の感想」を検索する人はいったい「何を求めて」そういう行為をするのかを、理解はできるけれども共感はできない、と思った次第で御座います。
パターン1 シンパシー
「おもしろかった」「だまされた」「ドキドキワクワクした」「泣いた」「震えた」「会いたくて会いたくて震えた」など、読書の感想は人それぞれだ。
「買わなきゃよかった」「読んだ時間がもったいない」そんなざんねんな気持ちを抱くことがあるかもしれない。
その気持ちを自分で抱えきれなくなったとき、人は検索する。
インターネットには感情がごろごろ落ちているので検索すれば犬も棒に当たる。
グーグルの検索ボックスに「いまの気持ち」を入力する人ってけっこういるみたいですね。
パターン2 代弁者
「ウワーおもしろかったー」で終わって後に何も残らない読書が最高だと私は思う。
「こんな知識が得られた」とか「これからは生き方を変えよう」とか読書を通してそんなふうに思えることはすばらしいけれども、やっぱり本を読む醍醐味は単純な娯楽、エンターテイメントにあるのではないか。
と、私は思うものの、世の中にはそうでない方がいるらしい。
「私の面白かった気持ち」とか「そうそう。私が言いたかったのはこういうことよ~」のような「未だ私が気づいていない私の感想」を求めて、人は読書感想を検索することがある。
恋愛における「運命の人探し」ではないですけれども、そういう読書における「運命の感想探し」みたいなものをグーグル検索に委託するのはいささかお手軽すぎやしないか?と思うけれども特に有効な代替案もないのでこの話題はこれでおしまい。
パターン3 世界の拡張
学術的興味から検索を行うことがある。
検索履歴をザァっと振り返ったところ公開できる範囲では「夢違観音」を過去の私は検索していたようです。そして満足していた。「ははぁ、法隆寺にあるのか」と知識を獲得していた。
読書においても、ある小説を読んだとき検索すると、同じ作者の別の小説に主人公がチョイ役として登場していたり、その小説の舞台となったところは実在していて秋田県にあります!なんて情報が得られたりします。
たとえば辻村深月はけっこう同じ人物を複数作品に登場させるのでそれについて記事をかいたところわりと好評でした。
パターン4 課題処理
「読書感想文の課題、めんどくさいな……あ、ネットで検索してちょちょいとやっちゃお」が最たる例である。
私は下記のサイトに読書感想文をアップしているのですが、夏休みの時期にアクセスの9割が集中する。そういうことである。
話が脱線するが、「この文章、参考にしても良いですか?」というコメントを残す学生の方が毎年いらっしゃるけれども丁寧だなと思う。
こっちはインターネットにアップした時点である程度無断で使われることは覚悟しているわけで、いちいち了解をとるまでもないのでは?と思う気持ちがあるのだけれど、そういうお訊ねをされるということは、後々の憂いを絶つというか、「自分は許されている」安心感を得るためというか、ある種打算的なふるまいであることよ、と思いけり。
おわりに
というわけで本を読んだ後に感想を検索する人は主に4つの理由であるということを書いてきました。
- シンパシー
- 代弁者
- 世界の拡張
- 課題処理
「蓼食う虫も好き好き」って言葉、私は大好きである。
自分が好きなものは誰にも理解されないままでも好きでいてもいいのだよ、と背中を押してくれるようなことわざだから。
ここまでいろいろつらつら書いてきましたけど、検索したい方は好きに検索すればよろしい。私は検索されてもされなくても蓼食ってのんきにやって参りますので。