鬼滅の刃における家族について

空っぽ

 魅力的な人間、とりわけヒーローには「空っぽであること」が必要であると私は思います。

 『チェーンソーマン』のデンジしかり、『ワンピース』のルフィしかり、『BLEACH』の一護しかり、僕のヒーローアカデミア』のデクしかり。みんな、「空っぽ」です。

 デンジは両親がおらず、借金のために悪魔を狩ったり木を切ったりしていますが、稼いだお金は収入したとたんに返済に回される、僅かな食費しか手元に残らない生活を続けていました。財産が「空っぽ」である上に義務教育も受けておらず頭も「空っぽ」、また、物語の始まりにおいて唯一の家族であるポチタが心臓の代わりになっているため、生命活動の核も「空っぽ」、さらにそのことによりデンジはチェーンソーマンへの変身能力を獲得し公安に所属することになりますが、人生の目標や欲求は三大欲求+α(胸を揉みたいなど)くらいしかなく、生きる意味も突き詰めれば「空っぽ」です(身も蓋もない言い方をすれば人間ってすべからくみんなそうなんですけど)。

 ルフィについては私実は彼のことを少し怖いなって思ってるくらい「空っぽ」です。彼の人生の目標は「海賊王になる」であることは『ワンピース』を読んだことがない人ですら知っている可能性がある程度の情報ですが、なぜ彼は海賊王になりたいのか?海賊王になるには具体的にどのようにすればいいのか?海賊王になってなにがしたいのか?などなど、はっきりとは明言されていません(筆者はここ数年のストーリーを追えていないので明らかになっていたらご容赦下さい)。彼がよくわからない目標に向かって生きているということは、換言すると何も目指さないで生きていることと同義なのではないかと私は思っています。だから彼は「空っぽ」を胸に抱えて海を渡っているように私には見えます(『ドラゴンボール』の悟空にも通じる「空っぽ」さなのですが、それはまだ別の話)。

 一護はそもそも物理的に胸に穴が空いたりしますし、「ブリーチ」というタイトルの単語は「色を抜く」、「抜く」は「空っぽ」に通じ、また、デクについても物理的に個性がない「空っぽ」状態で物語に登場します。

 愛されるヒーローには「空っぽ」が不可欠であると私は考えます。

 ここから本題。

 『鬼滅の刃』において炭次郎は、冒頭で家族を鬼に殺され、心が「空っぽ」になります。その「空っぽ」な心に入り生きる理由となったのが、化け物となっても生きながらえた彼の妹・禰豆子でした。

 ちなみに『NARUTO』におけるナルトも同じ構造で物語が始まっていて、彼は生まれたばかりの「空っぽ」状態に九尾という化け物が封印されています。九尾は彼と血縁関係はありませんが、封印の際、両親の命が犠牲になり、彼らの意識も僅かながら九尾とともにナルトの体内に残されています。

 そんなわけで、『鬼滅の刃』と『NARUTO』は、どちらも物語のスタートは「空っぽ」に家族が入るという構造ですが、上述の通り、入ったもの、入った経緯が異なります。

 ヒーローに必要な「空っぽ」が主人公に付与されると、その「空っぽ」を中心に物語は形成されていきます。ゆえに、炭次郎は妹を、ナルトは両親と血縁ではないものを中心とした物語を作り出す運命を授かったといえます。

 その後、炭次郎は妹を人間に戻すべく修行を行う一方で、ナルトは血縁でないもの=木の葉隠れの里のみんなを見返す目的で行動していき、最終的には里のみんな、さらには忍者界全体、そして人類全体のために戦っていきます。

 炭次郎も最終的には人間のために戦うことになりますが、両作品のプロセスは若干異なっています。

 「里のみんな」が中心である家族のために戦うか、「妹」が中心である家族のために戦うか。

少年ジャンプ連載期間の比較

NARUTO:1999年43号 – 2014年50号

鬼滅の刃:2016年11号 – 2020年24号

 両作品の連載期間は重複することなく、『NARUTO』の連載終了の約一年後に『鬼滅の刃』の連載が始まっていますが、注目すべきは連載開始時期です。1999年と2016年。ヒーローの起源であるところの「空っぽ」の設定時期には15年の隔たりがあります。

 私は『NARUTO』の「空っぽ」設定時には「みんなのために行動すること」を理想とする幻想がかろうじて残っていたけど、『鬼滅の刃』の「空っぽ」設定時にはその範囲が狭まっており、「(みんな=)一緒に住んでいる人のために行動すること」程度まで縮小してしまったのではないかと思います。

 自分が他人を「みんな」として気を配ることのできる射程が限定されてきているのを感じます。

 これを「テレビ・新聞等マスメディアの衰退により、Youtube等で”見たいものだけを見る”文化の裏返しである」と短絡的に結びつけるのは簡単です。

 炭次郎の必殺技「全集中」のネーミングは、「限定する」「あえて局所的にする」字面です。自分の意識を狭め、他を切り捨てる行為を連想させます。曲解するなら、自分の手の届く範囲を広げようとする努力よりも、今「自分の周囲にある大切なものだけ」を護れればいいという局所的な気遣いが「全集中」であるととらえることもできます。

 対してナルトの使う技は「仙人モード」や「九尾のチャクラ」など、「みんな」から力を借りたり、「みんな」に力を分け与えるものが中心です。

 これらの表面だけを比較すれば、日本人の家族観の縮小を想起するかもしれません。

 しかし『鬼滅の刃』の名作たるゆえんは、「全集中」という技を設定しておきながらも、それに引っ張られず、その後、鬼サイドの事情や、鬼を滅するサイドにおける鬼性を描き、「みんな」の個別事情を明らかにすることで、読者の想像の射程を広げる方向に物語を拡張していったことにあります。

 「鬼は人を殺す。だから悪い。悪いから滅する」短絡的な論法に逃げず「鬼にも事情があり、人にも事情がある。みんな大変なんだ。理解する努力をしよう」へ物語をシフトしていくことで、偏狭から始まった読者の視野を広くしてくれているように私には思えます。

 「異端なものは排斥しなければならない」というロジックは、残念なことに、争いの連鎖を断ち切る効果はなく、逆に生み続けてしまう結果になることを歴史が数多く証明していますが、私たちはそれをしばしば忘れていまいがちです。だからこそ、『鬼滅の刃』のような名作に触れることで、「異質なものと共存していく道がある」ことを定期的に思い出さなければならないと私は思います。

 『鬼滅の刃』のタイトルが『鬼滅物語』でないのは、鬼を滅するのは「刃」であって「人間」ではなく、「人間」がその手を「刃」から離せば、滅ぼし滅ぼされるスパイラルから救われる可能性があることを示唆しているんだな、と振り返ってみて思いました。「剣を握らなければ おまえを守れない 剣を握ったままでは おまえを抱き締められない」ってことなんですかね。